【歴史】血友病の最古の記述と、血友病が王室の病気と呼ばれる理由。
- 2019.07.15
- 制度・歴史
今回は血友病の豆知識【歴史編】です☆
血友病は古くから知られる先天性出血性疾患ですが、まだ血友病の仕組みが解明されていない時代の人々はどのようにして血友病と向き合ってきたのでしょうか??
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血友病に関する最古の記述
男子2人を割礼後の御し難い出血にて失いし母親は、3人目の男子に割礼を施すべからず
(紀元前2世紀 バビロニア教典)
” 宗教的儀式である割礼によって第一子の男の子が出血し、第二子の男の子も同様に出血した母親は、第三子に割礼を行ってはいけない ” と、男性の出血に関する遺伝があることを認識していたと伺えます。これが血友病に関する最古の記述とされています。
中世以降には、「皮下出血・鼻血の多い少年」や「軽い怪我で出血死した男性について」など、具体的に出血しやすい男性についての記述が残されているようです。
では、この時代の人たちはどのようにして血友病と向き合ってきたのでしょうか??
治療法がない頃の血友病との関わり方
血友病最古の記述とされる紀元前2世紀ごろ、この時代では子供が亡くなることは珍しいことではなかった為、特に病気に対しての関心はなかったようです。
時代を重ねるごとに血友病への関心は高まりましたが、「出血しやすい」ということだけで出血の原因が解るまでには時間がかかりました。もちろん治療法はなく、出血をしない為に ” 外出しない・部屋に引きこもる ” というのが血友病の対処法だったようです。
治療法がないため『この子は長く生きられない』と悲しむ親は多く、神にもすがる思いで血友病と向き合っていました。
ロシア帝国皇帝ニコライ2世の第一子、ロシア帝国最後の皇太子 ” アレクセイくん “ も血友病に悩まされ、両親は当時、魔術師で有名だった ” ラスプーチン “ に祈りを捧げてもらっていたのですが、これがまさか歴史上の大事件である『ロシア革命』とつながっていくとは・・・。
血友病はロシア革命の一因?
血友病が「王室の病気」と呼ばれているのは有名ですね。大英帝国最盛期の象徴として名高い ” ヴィクトリア女王 ” は夫との間に9人の子を授かり、子供達は他国の王室に嫁ぎ、多くの孫に恵まれました。
実はこのヴィクトリア女王、血友病保因者であったため政略結婚で作られたヨーロッパ王室は血友病に悩まされることになりました。ちなみに、後の研究で血友病Bの保因者であることが解りましたが、王室に病が広がっていることを全員が隠したためヴィクトリア女王は自分が保因者であることを知りませんでした。
ヴィクトリア女王の遺伝子を受け継いだ ” 皇女アレキサンドラ ” はニコライ2世の元へ嫁ぎ、4人目にして念願の男の子 ” アレクセイくん ” を授かりましたが、彼も血友病に悩まされました。
血友病が解明されていないこの時代、アレクセイくんは幼い頃から出血による痛みに悩まされ、関節内出血により肘や膝を動かせない状態にあったそうです。そんな様子を見ていた母アレキサンドラは痛みを訴えるアレクセイくんの声を聞くことしかできず、自分を責めていました。そんなアレキサンドラの元へ近づいてきたのが魔術師として有名だった ” ラスプーチン ” でした。
『私がアレクセイを救う』とラスプーチンが祈りを捧げると不思議と病状が良くなりました。今でいう催眠術のようなものだったのでしょうか?今の科学では解明できない何かがあったのか、病状が良くなったのは確かなようで、ラスプーチン自身も強い生命力を持っていたようです。
こうして皇帝夫妻から絶大な信頼を勝ち取ったラスプーチンは治療だけにおさまらず、国政にまで口を出すようになっていきました。
しかし、このような状況に貴族から不満を待たれラスプーチンは処刑。アレクセイくんを含めたラスプーチンと関わりの深かったニコライ2世の家族全員も処刑されてしまいました。
その後ロシア革命へと発展したため、血友病はのロシア革命の一因となったとされています。
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